1939年、ポーランド南部の都市クラクフにドイツ軍が侵攻した。ドイツ人実業家のオスカー・シンドラーは、一旗揚げようとこの街にやって来た。彼は金にものを言わせて巧みに軍の幹部たちに取り入り、ユダヤ人の所有していた工場を払い下げてもらう。ユダヤ人会計士のイツァーク・シュテルンをパートナーに選んだシンドラーは、軍用ホーロー容器の事業を始める。41年3月、ユダヤ人たちは壁に囲まれたゲットー(居住区)に住むことを義務づけられる。シュテルンの活躍で、ゲットーのユダヤ人たちが無償の労働力として、シンドラーの工場に続々と集められ事業はたちまち軌道に乗る。

ナチスのワルシャワ侵攻を目の当たりにし、死の収容所送りを奇跡的に逃れたシュピルマンは、ゲットーの廃墟に身を隠すことで第二次世界大戦を生き延びる。

ユダヤ人女性の歴史学者デボラ・E・リップシュタットは、イギリスの歴史家デイヴィッド・アーヴィングが主張する「ナチスによる大量虐殺は無かった」とする"ホロコースト否定論"を看過できず、真っ向から否定していた。しかし、アーヴィングはリップシュタットを名誉毀損で提訴し、異例の法廷対決を行うことになった。訴えられた側に立証責任があるイギリスの司法制度で戦う中でリップシュタットは、大量虐殺の事実を証明する必要があった。彼女のためにイギリス人による大弁護団が組織され、アウシュビッツの現地調査に繰り出すなど、歴史の真実の追求が始まった。そして2000年1月、多くのマスコミが注目する中、かつてない歴史的裁判がはじまった。

1942年1月20日。国家保安部代表のラインハルト・ハイドリヒは、ナチス親衛隊と政府高官ら15名を、ドイツ・ベルリンのヴァンゼー湖のほとりにある邸宅に招集する。「ユダヤ人問題の最終的解決」についての会議が開かれ、彼らはヨーロッパの全てのユダヤ人を抹殺する計画について話し合う。会議ではユダヤ人の移送、強制収容、強制労働、計画的殺害などが異論なく議決される。